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江戸時代~明治維新
(1)江戸幕府
豊臣秀吉の死後の1600年、第一の実力者である徳川家康と打倒して豊臣家を守りたい石田光成(いしだみつなり)らは、戦になります。関が原の戦い(せきがはらのたたかい)です。この戦の勝利によって家康の天下はほぼ決まります。1603年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となった家康は江戸幕府を開きます。さらに1605年子の徳川秀忠(とくがわひでただ)に将軍職を譲り、将軍が世襲であることを天下にしめします。そして1614年~1615年の大坂の陣で豊臣家は滅亡します。
(2)徳川将軍の変遷
徳川家康、秀忠、家光(いえみつ)の3代で幕府の土台はほぼ出来上がります。武断政治(ぶだんせいじ)と呼ばれ大名の改易(かいえき)などにより支配体制を固めていきました。家光の時代には長崎の出島(でじま)による鎖国(さこく)体制が整います。その後は文治政治(ぶんちせいじ)と呼ばれ思想や学問による統制をはかっていきます。1651年家光が死ぬと家綱(いえつな)が11歳で4代将軍となります。その後5代将軍・綱吉(つなよし)は、有名な生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)を制定します。綱吉の養子である家宣(いえのぶ)が6代将軍になりますが若死にし、その子家継(いえつぐ)が第7代将軍となります。その家継も8歳で死んでしまったため跡継ぎがなく、1716年紀伊藩主の徳川吉宗(とくがわよしむね)が8代将軍となります。吉宗は享保の改革(きょうほうのかいかく)という大規模な幕政改革をおこないます。吉宗の後は子の家重(いえしげ)が9代将軍になりその子家治(いえはる)が10代将軍となります。この時期は老中(ろうじゅう)の田沼意次(たぬまおきつぐ)が権力を持ち政治を行いました。家治死後、一橋家(ひとつばしけ)から養子となった家斉(いえなり)が11代将軍となります。この時代は白河藩主となっていた松平定信(まつだいらさだのぶ)が老中となり寛政の改革を行いました。家斉は政権を握ったまま子の家慶(いえよし)に12代将軍を譲ります。大御所(おおごしょ)家斉が死んだ後、老中の水野忠邦(みずのただくに)が中心となり天保の改革(てんぽうのかいかく)が行われます。家慶の子で13代将軍の家定(いえさだ)は、子がなかったため紀伊藩主・徳川慶福(とくがわよしとみ)を継嗣として14代将軍・家茂(いえもち)としました。家茂の死後は家茂と継嗣を争った一橋家の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が15代将軍に就任します。最後の将軍です。
(3)幕末の動乱
1854年にアメリカなどの圧力によって、日本は開国します。1858年には諸外国との不平等な通商条約を結ぶこととなります。翌年から貿易も始まり国内経済は混乱します。開国の一連の動きによる国内情勢の変化により幕府の滅亡は早まります。幕末に幕府独裁を目指した大老(たいろう)の井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺され、内外の混乱は続きます。1867年15代将軍・徳川慶喜は幕府の衰退を自覚し討幕派との正面衝突を避けるために、大政を奉還して徳川幕府は滅亡します。
(4)明治維新
1867年、討幕派は王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)を発して徳川慶喜を新政府から排除します。これにより憤激した幕府側との武力紛争をおこさせる戦術でもありました。旧幕府側と新政府による戊辰戦争(ぼしんせんそう)により、江戸幕府は名実共に壊滅しました。