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鎌倉時代

(1)保元の乱(ほうげんのらん)・平治の乱(へいじのらん)
政権を握っていた鳥羽上皇(法皇)が1156年に亡くなると新しい権力争いがおこります。時の天皇である後白河天皇(ごしらかわてんのう)と既に退位していた兄の崇徳上皇(すとくじょうこう)です。この争いに藤原氏・平氏・源氏の親族の争いも加わったのが保元の乱です。
勝った後白河天皇の側についていたのは、藤原忠通(ふじわらのただみち)、平清盛(たいらのきよもり)、源義朝(みなもとのよしとも)です。
すると今度は、院の中での対立が始まり争いが起きます。これが平治の乱です。この時、平清盛は源義朝を倒します。

(2)平氏の台頭
院政と共に力を増した平氏は、平清盛を中心に権力を握ります。1167年に太政大臣(だいじょうだいじん)に出世した清盛は、娘の徳子が生んだ高倉天皇の子を安徳天皇(あんとくてんのう)として平氏の最盛期を迎えます。

(3)平氏の最期
1181年に清盛が病死すると、源氏の勢いがだんだんと増していきます。1183年には源義仲(みなもとのよしなか)が京の都にせまり、平氏は安徳天皇とともに西へ落ちのびます。しかし義仲が都で暴れだすと東国の源頼朝(みなもとのよりとも)が弟の範頼(のりより)・義経(よしつね)を大将に軍を派遣し義仲を倒します。その後、一の谷(いちのたに)、屋島(やしま)、壇ノ浦(だんのうら)と各所で平氏と戦い1185年に平氏を滅ぼします。

(4)鎌倉幕府
1183年に頼朝は後白河院から東海・東山両道の支配権を認められ東国の支配権を得ます。そして鎌倉を本拠地に新しい政治を始めます。この鎌倉幕府の体制を「封建制度」といって主人(鎌倉殿)と従者(御家人)が御恩と奉公という形で結ばれます。
平氏討伐の後の1189年、頼朝は弟の義経・奥州の藤原氏を倒します。そして1192年に念願の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となるのです。

(5)執権政治
1199年に頼朝が死ぬと幕府に内部争いが多発します。ここで力を得たのが頼朝の妻・政子の実家である北条氏です。まず2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)と妻の実家である比企一族を滅ぼします。その他にも有力御家人である和田義盛(わだよしもり)をはじめ、数多くの有力者が北条氏に次々と滅ぼされていきます。
1221年には後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の命により幕府討伐が行われますが、北条泰時(ほうじょうやすとき)擁する幕府軍に敗れます。承久の乱(じょうきゅうのらん)です。
これにより、北条氏の世襲による執権政治(しっけんせいじ)が安定期にはいります。

(6)元寇
8代執権の北条時宗(ほうじょうときむね)の時代に元が攻めてきます。元寇(げんこう)です。元とは、モンゴルのチンギス=ハーンが興し、孫のフビライ=ハーンで隆盛をきわめた大都(今の北京)を首都とした国です。1274年の文永の役(ぶんえいのえき)と1281年の弘安の役(こうあんのえき)の2回にわたって攻めてきました。暴風雨や台風の影響もあり元を撃退しました。

(7)得宗専制
元を撃退したものの御家人に与える恩賞が不足して幕府は傾いていきます。その中で得宗(とくそう)と呼ばれる北条氏の主流に権力が集中していくようになります。御内人(みうちびと)と呼ばれる得宗の家臣の力が強まりその中でも代表となる内管領(うちかんれい)は有力御家人をも凌ぐようになります。









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