Top Page

平安時代
(1)平安時代
794年、今の京都に都を移します(平安京遷都)。桓武天皇(かんむてんのう)の時代です。
桓武天皇の次は息子の平城天皇(へいぜいてんのう)です。平城天皇が病気での退位後に弟の嵯峨天皇(さがてんのう)が即位します。しかし、平城天皇の病気が回復するともう一度権力の座を目指し、嵯峨天皇とともに権力の二分化が起きてしまいます。
この動きを抑えたのが薬子の変です。810年嵯峨天皇から蔵人頭(くろうどのとう)に任命された藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らが平城天皇側の藤原薬子(ふじわらのくすこ)らを逮捕しました。
この藤原冬嗣の子孫が摂関家(せっかんけ)として藤原氏の主流になっていきます。
(2)菅原道真(すがわらのみちざね)
藤原冬嗣の後は、子の良房(よしふさ)そして甥の基経(もとつね)が継いでいきます。
その基経の死後、宇多天皇が自ら政治を行います。この時期に活躍したのが菅原道真です。道真の進言で894年に遣唐使が中止されました。その後、道真は出世していき次の醍醐天皇(だいごてんのう)の時代には右大臣になります。しかし、901年に右大臣・菅原道真は藤原基経の子である左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)らの策略によって九州に左遷されてしまいます。その後、時平の弟の藤原忠平(ふじわらのただひら)と摂関を歴任します。
(3)摂関政治
969年藤原氏によって醍醐天皇の息子である左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)が失脚させられる安和の変(あんなのへん)がおきます。これにより藤原氏による摂政または関白の政治、つまり摂関政治が強固なものになっていきます。この摂関政治の最盛期は、藤原道長(ふじわらのみちなが)です。道長は、後一条天皇、後朱雀天皇、後令泉天皇という3代の天皇の母方の祖父として権力を握ります。道長の息子藤原頼通(ふじわらのよりみち)は、もっとも長く摂政・関白を務めることになります。この頼通は、宇治の平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を建立したことで有名です。
(4)天皇の政治
藤原頼通(ふじわらのよりみち)の娘が天皇の男子を産まなかったことにより、摂関家を外戚としない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が誕生します。頼通は関白の座を弟の藤原教通(ふじわらののりみち)に譲りますが、後三条天皇は摂関家に頼らない政治を行っていくこととなります。後三条天皇の次は白河天皇(しらかわてんのう)ですが、白河天皇は息子の堀河天皇(ほりかわてんのう)に位を譲った後も権力を握りつづけます、つまり院政(いんせい)という政治形態です。その後、鳥羽上皇(とばじょうこう)・法皇(ほうおう)の院政時代が続きます。