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律令国家
(1)成り立ち
ヤマト政権では大臣(おおおみ)の蘇我氏が大連(おおむらじ)の物部氏を滅ぼし巨大な権力を持つようになります。
その後、大王(おおきみ)に女性の天皇、推古天皇(すいこてんのう)が立てられます。推古天皇の下で聖徳太子(しょうとくたいし)と蘇我馬子(そがのうまこ)が政治を行います。603年には「冠位十二階」が定められ604年には「憲法十七条」が発せられます。外交では、607年に小野妹子(おののいもこ)を遣隋使として派遣します。しかし、隋は滅び618年に唐が建国されます。舒明天皇時代の630年には、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)が遣唐使として中国にわたりました。

(2)大化の改新
蘇我氏がいては、国政改革の邪魔になると考えた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らは、645年に反逆し蘇我氏を滅ぼします。そして新しく孝徳天皇(こうとくてんのう)を立てて都を難波に移します。これが大化の改新です。

(3)大宝律令(たいほうりつりょう)
「律」というのは犯罪と刑罰を規定した今の刑法にあたるものです。「令」というのはその他の法律です。今でいうと憲法や民法です。その両方そろったものが、701年の「大宝律令」です。









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